読切小説
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お題小説【リコーダー】【コルセット】【ブラックライト】
 好きな子のリコーダーを舐めたことがあるかと言われれば、ないとは言い切れない。
 そもそも、好きな子のリコーダーを舐めるという行為は、思春期に入りたての小学生が犯してしまう過ちであり、好きな子の唇に触れたものを間接的に味わいたい、唾液を摂取したい、同時に次は相手が自分の舐めたリコーダーを咥えることにより自分の唾液を摂取している姿を見て悦に入りたい、というような低俗で猥雑な悪戯心からくる行動である。
 リコーダーを舐めるまでの計画と、リコーダーを手にした時の昂揚感。いざ、リコーダーの拭き口を咥えてみた時の背徳感。そして、リコーダーを戻して立ち去るまでの緊張感。最後に、次の音楽の授業で好きな子がリコーダーを拭いているのを見る満足感。それら全てが小学生なりのフェチズムを楽しむ場であり、エロスとスリルがスパイスとなって、一定層、実行してしまう連中が表れるという訳だ。
 というか、自分がそうだった。
 一部の女子の間で秘密裏にブームレットを巻き起こしていたこの行為に関して、しかし一つ断りを入れるとすれば、自分の場合は他の連中と違ってもっとスマートに、もっとクレバーな計画でリコーダーを舐めた。
 なぁに、簡単なことだ――音楽の時間に忘れたからと言って、妹のリコーダーを、借りただけなのだから。
 妹。
 可愛い、双子の妹。
 双子というのは一学年に一クラスでない限りは大抵違うクラスに分けることが多く、それは自分たちも例外ではなかった。だから、片方が忘れ物をすれば、もう片方のところへ借りに行くことが出来た。そのことに気付いた策士な自分は、わざとリコーダーを忘れて、妹の下へ借りに行った。当時からどこか抜けたところのある彼女は、こちらがリコーダーを忘れた旨を伝えると「もう、ミキちゃんはドジなんだから」と言って快く自分のリコーダーを差し出したのだ。
 そうして、リコーダーを合法的に舐めることに成功した。
 妹は、双子の片割れの邪な想いに気付かぬまま、卒業するまでリコーダーを使い続けた。
 片割れの邪な想いは、卒業できないまま、今でも燻ぶり続けている。



「ミキちゃん、ミーキーちゃん」
 おーい、と肩をゆすられて、ハッと我に返る。どうやら思考の海に飲まれていたらしい。見れば、実験用ゴーグルに切り取られた視界の中に、マイクロピペットを握った右手とシャーレを掴んだ左手が一時停止していた。チャンバー内の換気扇の、乾いた排気音が、実験途中の放心を窘めているようだった。
 ガラス張りのショーケースに手を突っ込んでいるような実験スタイルが基本のこの研究室において、ドラフトチャンバーに手を突っ込んだままぼんやりしているのは研究者として完全にアウトだった。確かに週末が近付くにつれてストレスがこみ上げてきて、吐きそうな気持ちを堪えて大学に通っているとはいえ、危機管理がなっていないと自省せざるを得ない。ひとまず手にしたものを置いて、ガラス張りの箱から手を出す。シリコンの手袋を引っ張って外し、白衣のポケットに無造作に突っ込んだところで、背後の男がにょきりと右肩の方から顔を出した。
「ミキちゃんお疲れ? 集中力落ちてるなら帰って明日やった方が効率良いよ?」
 左側に頭を傾けていなければ頬がくっつきそうな距離で同僚が言う。こいつも自分の実験に飽きがきたらしく、休憩に飲んだコーヒーの臭いがする。あと顔が近い。奴の長い茶髪が首筋をくすぐり、チャラついた声が不快感を増長する。セクハラで訴えたくなるようなこの行為はいつものこと過ぎて今更慣れてしまったが、極め付けとして、右肩に乗せられた手に輝く指輪を見て、一つ、溜息をついた。
「……ミキちゃんってやめてください」
「え? だって奏多が、『ミキちゃんが、ミキちゃんが~』ってよく言うからさ、うつっちゃった」
 テヘペロ然として微笑まれて、ムカついた。ただの同僚でないから余計に性質が悪い。
 可愛い妹。双子の片割れ。
 自分の半身とも呼ぶべき彼女を、奪い去ったのはまさにこの男だった。
「この年になって、ミキちゃんって呼ばれたくないです」
「えー、でも、奏多は呼んでんじゃん」
「カナは良いの、アレは生まれた時から一緒なんだから」
 特別、なんだから。
 口の中で、言葉を飲み込む。それは、言ってはいけないこと――特に、この男には。
 そう思って、ズキンと胸が痛くなる。ウッとなって、よれた白衣の裾を握りしめて堪える。
 自分の想いをこの男は知らない。知るはずもない。知らせてはいけない。
 平静を、平穏を、と唱えながら深呼吸して、自分を保つ。
「へいへい、双子自慢ですかよ」
「自慢の妹ですから」声が震えないように気を使いながら、そっけなく言う。と、
「自慢の彼女でもありますけど」
 それで、心がポキリと折れた。
 優しくて可愛い妹に惚れた同じ穴の狢は、今週末に義弟になる。
――きょうだい
 二人きりの空間に、異質な異物が混入してくるというのだ。それも、妹はこの男のものになるという形で。
 最悪だった。
 だがしかし、それは他者から見れば、最善で自然だった。
 同僚の男は非常に優秀で、このままいけば助教・准教授・教授と上り詰めることも可能であると、現教授が酒の席でふかしていた。書いた論文は世界中で高く評価され、若さを活かした奇抜な発想で業界の風雲児として面白がられている男。容姿も、性格も人好きする愛嬌のあるもので――自分にはただのチャラ男にしか見えないが――かなりモテる方なのだ。
 そいつが妹をモノにした時、世界を呪った。
 しかし男と女のこと。自然の摂理には逆らえないということは身に染みて分かっていた。自分も生物屋の端くれ、妹の彼氏の共同研究者にして実験助手をしているのだから、当然、生き物のルールには逆らえないことを知っていた。
 自分と妹ではダメなのだ。
 彼女は子供が好きだ。でも、自分ではそれを叶えることは出来ない。生物学上、許されない。
 その悔しさが今も精神を蝕んでいる。悔しくて、憎らしくて、殺してしまいたいけれど、そんなことをしたら妹が悲しむから、余計息苦しかった。
 眼前にはガラスに映った自分と、憎らしい男の笑顔。チャンバー内で、消し忘れたブラックライトが紫以下の波長を放っていた。
 紫外線。
 シャーレの中、寒天培地に植え付けた大腸菌の遺伝子を破壊し、変異させるための見えない光。チャンバー内に腕を入れることで、自分の遺伝子も突然変異させてくれればいいのに、とぼんやり思った。
 遺伝子が違えば、妹と――
 何度繰り返したかもわからない考えを、生物屋としては悪魔的な、自然の摂理に反し本能が忌避する妄想を、ライトの光を消すことで断ち切り、立ち上がる。肩に乗せられていた男の顎を下から強く押し上げることで、奴は「あがっ!?」と舌を噛みかけていたが、そんなのお構いなしだ。
 舌噛んで死んでくれたら、こちらとしては結果オーライなのだから。
 妹への愛とか同僚への憎しみとかそういうのがストレスとしてごぼりと頭の中で湧き上がり、眼から鼻から口からコールタールの様にどろりと出て行きそうになるのを手で押さえる。あぁ、と溜息を一つ。
「……疲れた。無駄話してるくらいなら帰る」
 実験用ゴーグルを外して腰のポケットに入れ、白衣のボタンを外す。
「良いなぁ、奏多の晩飯かぁ……オレも食いに行こうかなー」
「勘弁してください。急にそんな、材料とか追加できないし」ていうか空気読め。
 週末までの残り少ない水入らずを邪魔しないで。
 丸椅子から立ち上がり、背後にずっと張り付いていた男を押しのける。なれなれしくて、スキンシップ過剰で気持ちが悪い。妹がこんな男に惚れているのが不思議で、自分と妹の感覚に差がある事実にまた絶望した。もう何度目か分からない絶望だった。
 しかしこの男は自分のこともかなり気に入っているらしく、実験室を出て自分の机へ荷物を取りに行く間も後をついてきた。どうせ双子の妹を重ねているのと、身内に対するポイント稼ぎなのだろうが、連れションする女子みたいでやめて欲しかった。
「作った分のシャーレは培養器に突っ込んどいてください。明日、これの続きするで良いですよね」
「良いや、オレやっとく。今やってるヤツ時間かかるし、息抜きにー」
 軽いノリだが、息は抜いても手は抜かないのがこの男。はいはいお願いしますね、と適当にあしらって荷物をまとめていると、手にしたファイルバインダーが思いの外ひんやりとして、もう四月とはいえ夜間は冷えるのだということを実感した。
 それからむんずとカバンを掴んで振り返り、出来るだけ大股で奴の隣を通り抜けると、
「ふいふい、じゃ、お疲れさん」
 とへらへら笑って手を振られた。
「お疲れ様でした」
 苦々しい声でそれだけ言うと、廊下の闇へ足を踏み出す。


 大学から徒歩十分がカナの待つ自宅。
 安寧の地へと近づくにつれて、足がどんどん前へ出る。いやまぁ、下り坂だからなんだけど。
 なで肩なせいで落ちてくるカバンの肩ひもを掴んで押さえつつ、足早に帰路を行く。一刻も早くカナに会いたかった。
 道の両脇、等間隔に植えられた街路樹をあと何本、と数えていると、整えられた枝が揺れて音を立てる。
 冷たい風が冷静さを欠く自分には丁度良い。心地よさすら感じながら、風を切って前へ進む。次の交差点を右に曲がって、コンビニのところで左に曲がればマンション。その右から三番目が、愛する我が家である。
 扉の向こうにはカナがいて、彼女の手料理があって、帰りを待っているはず。温かい、空間が広がっているはず。
 あと、少し。
 そのぬるま湯のような温かい空間が待っていてくれるのは、あと、少しのことだから、一刻も早く――
「ミキちゃんっ!」
 背後から甲高い声がしたかと思えば、
 衝撃。
 背中にどんっという音が響き、脇腹の辺りに二本、腕が生えた。衝突の勢いで前のめりに転びそうになるのを、両足で踏ん張って堪え、何だ何だと振り返る。
 声の主はというと、
「ミキちゃんっ、お帰りっ」
 と背中とごっつんこして鼻が赤くなっているのにも関わらず、満面の笑みで顔を上げるので、
「ただいま、カナ」こちらもつられて頬が緩む。
 ちょっと天然が入っている方が、双子の片割れこと妹である。無邪気さ満点。あざとくない可愛さに溢れているというと、身内びいきかもしれないが、だって本当に、妹は天使のような可愛さである。
 しかし、我が家の天使は今頃、自宅で晩餐の支度をしていたはずであり、夜に外出するような子ではなかったはず。
「こんな時間に外、いるなんて、どしたの?」
「あー、えっとね、買い物に行ってたの」
「買い物?」確かに、近所のショッピングモールの袋を携えている。が、すぐ帰るつもりだったのか外気の冷たさを考慮していない服装で、指先が赤かった。「メールか電話してくれたら、買ってきたのに」
「ミキちゃん、実験中は携帯、気付かないくせに」
「そうだけどさ……冷たくなってるじゃん、カナ」
 冷え性のケのある指先を包むようにしてとると、息を吹きかけて温めてやる。そのまま左手を繋いで、カナのペースに合わせて歩き出す。こうしていると、傍からは仲良し二人組に見えるだろうか。ちょっと照れくさい気持ちでいると、カナの方は温まって嬉しいらしく、猫みたいな仕草で右腕にすり寄った。
「何? そんなに急な入用だったの?」
「そうなんだよねー。今週中に、って思ってたんだけど、改装セールで安売り今日までだったの忘れててさ、ヤバ―ってなってさ。大学からだとうちと反対方向だし、ミキちゃん、今日も遅くなるかな、って思ったから、お店閉まんないうちに、と思って」
「へぇ。で、目当ての物は買えた?」
「モチ!」嬉しそうに右手の袋を持ち上げる。
 中に、何が入っているのかはあえて、訊かないこととする。
 だって、今週中、週末までに必要なモノに、良いものなんてないんだから。
 訊いて、それがカナを失うことに関連するものだったと分かってしまったら、平静でいられる自信がなかったので。
 偶然二人で帰宅できるこの時間を守ることにした。
 だって、カナと一緒にいられるのだ。
 邪推も邪魔も、必要ない。



「お先にお湯、いただきましたー」
「はーい」
 夕食を終えた入浴後。
 タオルを首からぶら下げて、キッチンにいるカナに声をかける。丁度、洗い物が終わったところらしく、シンクを軽く拭いていた。下着姿のまま、リビングの開けた辺りに正座し、
「カナ、よろしく」
 脱衣所から持ってきたコルセットを隣に置く。
「うん。手ぇ冷たいかもしれないけど、ごめんね」
「大丈夫。いつものことだから、慣れたよ」
 一仕事終え、手を拭いているらしいカナに、振り向かずに笑う。
腰を痛めてからというもの、入浴後にコルセットを付けるのを手伝ってもらうのは日課だった。コルセット自体は一人でもできるのだが、ずれてしまいやすく、上手く固定できない。また、ぎゅうぎゅうに固めなければ心許なくて落ち着かない。だから、カナに頼んでがっちり締めてもらうのが丁度良かった。下腹部でコルセットの前部分を固定する。粘着部分がついた両端をカナが後ろに持ってきて、ぐいぐい引っ張り締めていく。そうして、いい加減のところでバチッと止めてもらうのだ。
 背筋を伸ばしてコルセットをスタンバイさせていると、カナが背後に寄る。
「コルセットつけるの、ミキちゃん、一人で出来るようにならなきゃだめだよう」
 吐息が、背中にかかるくらいの距離でそんなことを言った。下着越しとは言え、湯で火照った身体にカナの吐息は冷たく、くすぐったかった。胸の辺りが切ないのとは裏腹に、甘えるような声で答える。
「だって、自分じゃ上手くできないんだもん」
「ミキちゃんは、仕方ないなぁ」カナの色白の両腕が、背後から伸びる。「そんなんじゃ、カナがいなくなったらどうするつもりなの?」
 わき腹からではなく、首の両側から。
 そうして、きゅっと。
 抱きすくめられてしまった。
 二つに分かれた者同士が、もう一度一つになろうとしているみたいに、ピッタリと背中にくっつけられたカナの身体。肩甲骨の辺りに、柔らかいものが当たる。不意打ちのスキンシップを振りほどこうとしても、右肩にうずめられたカナの綺麗な顔に今更どぎまぎして、身体を強張らせることしか出来なかった。
 カナがいなくなったらなんて、考えたくなくて、何と返事をしたらいいのか分からなかったせいかもしれない。
 二人きりのリビングで、時計の秒針と自分の鼓動、水道から滴る雫だけがやたらに五月蠅く聞こえた。
 しばらくして、先に口を開いたのはやはりカナだった。
「……ミキちゃん」
「な、何?」
「久しぶりに、ミキちゃんとお風呂、一緒に入ればよかった」
「ブッ――」
 噴いた。突然の発言に、眼を白黒させて、
「バカな冗談はやめなさいっ。狭くて入れないし」
 顔が熱い。湯冷めしているはずなのに、視界に入る肌色は全部薄く赤みがかっていた。どうにかなってしまいそうだった。何とか理性をかき集めて、正論を搾り出す。
「二人とももういい大人なんだから」
「だって、子供のころは一緒に入ってたじゃない」
 カナの方は、首にかじりついたまま離そうとしない。顔は髪に隠れて見えなかったが、声だけは潤んでいて、
「今はもう、ダメ、だった……?」
「ダメっていうか……」ぐらりと何かが崩れそうになる。自分に言い聞かせるようにして、一般論ばかり並べる。「カナは、自分が嫁入り前の娘だってことを自覚しなさい」
「別に、ミキちゃんなら恥ずかしくないもん」
「今更、こっちだって恥ずかしくはないけどさ……」
 拗ねたような口調のカナにこのまま全てを委ねてしまいたくなる気持ちを押さえて、カナを咎めなければ、自分はもう完全にダメになってしまいそうだった。
「双子とはいえ、そういうのは、ちゃんとわきまえないと、ね」
 わきまえないと、一線を越えてしまうから。自分が、カナに。それがいけないことだと分かっているから、隠してきたというのに。
「ほら、お風呂覚めちゃうから、コルセットやったら、ちゃっちゃと入っちゃいな」
 努めて冷静に、諭すようにして声を掛けながら、カナの両腕をゆっくりとほどく。
「コルセットは、一人でも何とかするよ。大丈夫だから、カナは、心配しないで」
 ね、と再びコルセットをお腹の前で固定すると、今度は間違えずに両脇からカナの手が生えてきて、バンド部分を後ろへと引っ張っていった。それを見て、一息つく。
 コルセットの端をぎゅうぎゅうに引っ張られて、絞られて、そのまま押し出された気持ちをぶちまけてしまえたら、どれだけ良いだろう。
 双子という隔たりが、それを許してはくれなかったけれど。
 所謂、マリッジブルーのような物だと思う。カナは多分、生まれてからずっと一緒にいた自分と、別れるのが今更になって寂しくなっただけなのだ。それで、何かがこみ上げて、抱きついてしまっただけなのだろう。
 カナは、優しいから。
 一人ぼっちの『ミキちゃん』を、気遣ってくれたのだろう。
 そのことが、嬉しくて、同時に、やっぱり身が張り裂けそうなくらい辛かった。
「ねぇ、ミキちゃん……」危うく、生地がギリギリと擦れる音にかき消されそうなかすれた声。「苦しいよ」
「ちょ、カナ、苦しいのはこっち――」
 いくら何でも締め過ぎだ、と首だけで背後を見る。と、
「――カナ?」
 華奢な体が、震えていた。
「……寂しいよ」
「ねぇ、カナ」
「これで最後なんて、寂しいよ」
「は? 最後って、何? まだ明日が――」
「明日は、向こうのお家に泊まることになってるの。ミキちゃんには、まだ言ってなかったけど」
 金属バットで頭を打たれたかと思った。
 それくらい、あまりの衝撃に呼吸が止まった。
「は、ちょっと、それ、どういうこと」
「明後日は、着付けとかいろいろ、忙しくて、朝早いから、だから、泊まれって、向こうのご両親に強く勧められて。それで、だから」
 カナが――カナがここで暮らすのは、
 今日で、
「だから、このお家で一緒に暮らせるのは、今日が、最後、なんだ――」

 最後?

「――――」
「やっぱり、しんみりしちゃダメだってわかってたのに。どうしても寂しくなっちゃった。ちゃんと、最後の日も楽しく過ごそうって決めたの、自分なのにね。ダメだなぁ、私」
 目を開いているはずなのに。カナが見えているはずなのに。目の前が真っ暗になったような感覚に襲われて、立ちくらむ。はいおしまい、と言ってコルセットのバンドをポンと押すカナの乾いた声がどこか遠くに聞こえた。
「ごめんね。今の、しんみりしたの、ナシにして。じゃ、私、お風呂入ってくるから」
 取り乱している自分に構わず、彼女は立ち上がって支度を始める。カナは、どうして冷静でいられるのだろう。
「平気じゃないよ。ミキちゃんに、甘えたいよ」
「なら――」
「でも、私はミキちゃんのものじゃないから。カナはミキちゃんのものでも、私は違うの」
 きっぱりと、そしてバッサリとカナは自分の半身を切り捨てた。背中を向けていて表情まではうかがえなかったものの、声は固く、冷たかった。
「さっきは甘えちゃったけど。寂しくなっちゃったけど。でも、やっぱり、ちゃんとけじめは、つけなきゃいけないよね。さっきの、忘れて。ね」
 後ろで震えていたカナが嘘みたいだった。演技にしてはできすぎていたし、本心だとしたら、今のカナは一体何なんだ。カナの気持ちが、全く、理解できない。
 一方のカナは淡々と入浴準備を終え、リビングから出て行こうとする。と、
「リコーダー」
「は?」
「私、知ってたんだ」
 廊下に差し掛かったところで、急に振り返って言った。不意を突かれて、面食らったところに、さらに言葉を続ける。
「ばれたと思って返したのに。ミキちゃんは気付かなかったんだね」
「カナ、何言って――」
「お風呂、入ってくるね」
 腰を浮かせ、カナの後を追う。広くない家だ。脱衣所に入れば、一糸まとわぬ姿となったカナが、洗い場に立って風呂場の引き戸を閉める瞬間だった。考える間もなく、ガッと戸をつかんで阻止する。
「カナあのさ、」
「ミキちゃん、寒い」
 困ったように笑い、戸の取っ手をつかんでいない方の腕で自分の体を抱きしめる。
「ごめん」慌てて手を離し、また裸を直視するのもはばかられて、視線を外す。
「ミキちゃんも、湯冷めしちゃう。明日も早いんでしょう。先寝てて」
 カナはその隙を逃さなかった。気付けば、無慈悲に引き戸が閉められている。
「お休みなさい」
 狭まる隙間から、カナの笑みが綺麗だった。敵わない、と思った。
 少なくとも、カナが入浴を終えるまでは話ができなくなってしまった。
 仕方がないので言われるがまま、寝間着を着ようと自室に戻ったら、精神が疲弊したのだろう。
 そのまま、意識を失った。



 夢を、見た。
 カナが、笑っている夢。
 場所はよく分からない。靄のかかった空間に、カナと自分の二人きり。
 カナは、笑っていた。
 小学生のカナだ。
 真ん丸い顔に、おさげの黒髪だから、間違いない。オレンジ色のバッチを付けている。低学年の頃のカナだ。
――ミキちゃん。
 名前について調べよう、という宿題をやってからというもの、カナは、この呼び方が気に入ってしまっていた。可愛いすぎるし変じゃない? と恥ずかしがったら、特別だから、と笑っていた。
――ミキちゃん、って呼んでいいのは、カナだけなんだよ。カナが、特別だから。
――ミキちゃんは、カナのだけのミキちゃんなの。
 と、声がエコーしたかと思えば、映像が切り替わる。
 水色のバッチを付けた、先程よりも少し大きくなったカナ。ランドセルからは、例のリコーダーが飛び出ている。
――ミキちゃん。私ね。
――大きくなっても、ミキちゃんと、ずっと一緒にいたい。
 これは、いつの言葉だろう。確か、卒業式の時に、似たようなことを言っていた。
 中学から離れ離れになってしまうクラスメイトたち。その中に、親友がいて、それで、泣いていた自分に、カナが笑ったんだったか。
 カナは、泣かない子だった。感涙も、悲涙も流さない子だった。それだけ、強い子だと思っていた。
――ミキちゃんは、カナの代わりに泣いてくれるから、カナはその分笑うね。
 逆に自分は割と泣く子供だったから、それが恥ずかしくて、泣かなくなった。カナが泣かないなら、自分も泣かないと、決めたのは、そうか、この時だった。
――カナは、ミキちゃんのために、ずっと笑うね。
 そう言われて、何だかくすぐったい気持ちになった。今も、夢の中で泣いているはずなのに、頬を拭っている腕が、切なかった胸が、気持ちが、くすぐったくて、同時に温かかった。
――ミキちゃん。あのね、カナね、

 カナはね――



 遠い昔の記憶。
 なんと都合のいい夢。
 覚めてしまえば、虚しいだけなのに。
 重たい瞼を持ち上げると、世界が横倒しになっていた。掛け布団を両手両足で挟んで抱きかかえた状態で、右向きに寝ているだけなんだけど。寝相がお世辞にも良い方とは言えない自分の寝間着は、寝乱れて、腹は出てるわ左腕は剥き出しだわで寒かった。抱えた布団にもぞもぞもぐりこんで、多少の暖を取る。
 自室は暗く、色味の薄いカーテンから朝日が差し込むのが唯一の明かりだった。
 体が思うように動かず、気怠さが更なる睡眠を誘う。抗いつつも、起き上がれずに、耳だけ澄まして様子をうかがう。
 カナは――いないようだ。生活音がしない。朝食の準備をしているなら食器や調理の音がするはずだが、扉一枚はさんだ向こう側のダイニングは静まり返っていた。
 うぅ、と呻く。未だ、昨日のことを引きずっていた。
 今、カナがいないなら。次会うのは週末だ。
 カナが恋しいというのは、大の大人にしては女々しいかもしれないが、寂しいのは事実で、また心臓がきゅうと苦しくなる。しかし、現実は無慈悲で、頭上の置時計がけたたましいアラームで起床せよと叫んだので、起きざるを得なくなってしまった。砕けそうな心を落ち着けてくれる天使は、カナを失った今どこにもいないのだと改めて思い知った。


 カナは、朝食を用意してから外出したようだ。
 トイレの帰りに玄関を見ると、すでに靴はなかった。が、食卓にはラップにくるまれた皿が置かれていた。今朝はポテトサラダとハムエッグを乗せたトースト。どちらも、自分好みに作られていて、「最後の朝食だから、かなぁ……」と思わず独り言が出てしまった。
 もともとテレビがなく、そして今カナがいないこの部屋は、あまりにも静まり返っていた。だから、無理して食べながらつぶやき続けた。
 もそもそ食べて、終わったら曇りひとつないシンクに食器を片づけて洗い物。水が冷たくて、涙が出た。家事を全部カナに任せきりで、自分の不器用さを思い知ったからだ。そういえば、自分は料理もできない。これからどうしよう。お先真っ暗だ。
 とりあえず、大学だ。
「大学には学食という便利なものがある。コンビニだってある。いまどき料理ができなくたって、何とかなるじゃないか」
 大丈夫、大丈夫。励ましながら、自室に戻って着替える。割と朝は余裕を持てるようにアラームを設定していたが、洗い物といういつもと違う要素が増えた分、時間ぎりぎりだった。慌てて、身支度を整えて、鏡をのぞいて、満足いくまで髪をセットして、鞄を取る。
 そして、いざ出ようとリビングを通り過ぎようとしたところで、テーブルの上に、見慣れないペンと便箋の綴り、そして封筒が一つ置いてあるのに気付いた。
 宛名は『ミキちゃんへ』。カナが、出かける前に残していったもののようだ。
 カナは、子供のころからそうだった。友達の転校とか、クラブの引退とか、そういう『お別れ』の時に、それまでの思いを正直に伝える手紙をしたためるマメな子だった。溜まっていた感謝の念とか、楽しかった思い出とかをまとめて、記念に相手に渡すのだ。
 だから、これはカナからの最後の『お別れ』の言葉なのだろう。
 双子の片割れから卒業するための、三行半と言っても過言ではないだろう。
 そう思ったら、急に口の中いっぱいに苦々しいものが込み上げてきた。封を開けながら、『さようなら』なんて書いてあった日には今日大学に出勤できないかもしれないぞ、と思うと、自然と涙腺を引き締めようとし、顔をしかめる。
 が。
「白、紙?」
 封筒の中の便箋を広げてみると、まっさらだった。
 一緒においてあった綴りの中の便箋と、まったく同じ。
 隅に桜の花吹雪があしらわれたデザインで、ピンク色の罫線がひかれているだけの、割とシンプルな紙だった。
「白紙のまま入れちゃったってこと? いや、いくらカナがおっちょこちょいでも、そんなわけあるか」
 だって封筒がきちんと閉じられていた。つまり、意図的にカナは白紙の便箋を入れたってことになる。しかも、宛名はきちんと黒のおそらくボールペンで書いたのだろう。ならば、筆記具はちゃんとあったはずだ。
 手紙セットとしばらくにらめっこしながら、いろいろな可能性を考えてみたが、出た結論は一つだけだった。
 テーブルに置いてあったもの。
 つまり、
「このペンで書いたのか……?」
 見たところ、普通のフェルトペンだった。青いペン軸は無地で、特に何も書いていない。キャップを外すと、「ペン先が、白いや」
 するするする、と便箋の綴りの表紙裏にためし書きで円を描いてみても、やっぱり白。というか、何も書かれていないようにしか見えなかった。試しに手の甲にも同じような丸を描いてみたが、白どころか透明な円にしかならなかった。
 インクが入っていないペンなのだろうか? 詰め替え用で、青インクを別売りで買わなきゃ使えないタイプのペンなのだろうか。
 疑問符を浮かべていると、テーブルのそばに文具店の袋。もしかして、カナが昨日買いに行ったというのはこれのことか。わざわざ? 何故?
 思考に入ろうとしたところで、携帯のバイブが引き止める。出勤時刻だ。休むとあのクソ野郎にいろいろ言われる。
 とりあえず、手紙とペンとを鞄に突っ込み、足早に家を出る。



 道中あれこれ考えたが、あまりそれらしいものは浮かばなかった。
 研究室について、白衣に袖を通しながら振り返っても、せいぜい、『○○色のペンで手紙を書くと貴女の願いが叶っちゃう~』的な、小学生に流行りそうなおまじないの類、つまりくだらないことしか思い出せなかった。『緑色のペンで消しゴムに好きな相手の名前を書いて~』とか嘘くさいおまじないを思い出して、女子の間で流行ったよなぁ、と懐古する程度である。
「交換ノートとかも、流行ったよなぁ。カナとやったっけ」
 双子で同じ家に住んでいて秘密を共有するもくそもないのに、意味もなく鍵付きのノートを買ったりして。そういう、隠れてこそこそやる系のグッズが流行ったのも、思春期直前のことだったっけ。周りより少しだけ思春期に入るのが早くて、カナに慕情を抱いた自分は、爆弾級の秘密を抱えていたが、こすると消えて冷やすと字が出てくるペンとか、そういうのに秘密を書き留めることはしなかった。秘めて、胸の内にそっと隠しておくことが美徳だと、当時の自分は信じて疑わなかったからだ。
 結果的に、それが正しかったのかは今でもよくわからない。
 漫画の様に、ダメだと分かりながらも、血を分けた双子に想いを告げた方が、かえってこのような現状を作らなかったかもしれない。そう、あの時、小学生だったからこそ、笑ってすまされる話になったのかもしれない。いっそ、あの時潔く否定されていれば、今自分はこんなに苦しまなくても良かったのかもしれない――
 頭の中を巡るのは、Ifストーリーばかり。そうして、自問自答を繰り返しながらよたよたと実験室に入る。
 恋敵はまだ来てないのか、それとも来客があったのか、ともかく不在だった。丁度良い。今顔を合わせたら罵声を浴びせるどころの騒ぎでは済まなさそうだった。自分が、抑えきれるとは思わなかった。君子危うきに近寄らずの逆。危うい自分が、多分ヤツに合った瞬間に決壊するだろう。
「おはようございます」
「おはようござーます」
 実験室の入り口付近を陣取っている院生に声をかけると、彼はこちらを見向きもしない。チャンバー内ではマイクロチップで試薬を吸っていたし、ここではよくある光景だ。ぶつからないように気を付けつつ、奥へと入っていく。
 さぁ、仕事だ。どれだけメンタルダメージがあろうとも、手だけは今日も大腸菌の突然変異を促さなければ。
 シリコン手袋をピッタリはめ、培養器から必要な分の培地入りシャーレと大腸菌コロニーの生えたシャーレを取り出す。うっすら白濁したゼリーに、丸く白いコロニーが点在している。
 チャンバー内で、培地のシャーレを縦積みし、大腸菌塗布済みのシャーレは広げてブラックライトの下へ。押しボタン式のライトのスイッチを入れて、実験開始。
 ガラス張りの箱の中を見ながら、柄付き針でコロニーを削り、寒天培地にジグザグ模様を刻み付けて大腸菌を植える。ある程度広げたら、蓋をして次へ。その繰り返し。慣れているので手際よく植えていく。左手にシャーレを、右手に柄付き針を。ジグザグ。蓋をする。置く。次。ジグザグ。蓋をする。次。ジグザグ。蓋を、
 蓋を?
 そこで、初めて気が付いた。
 シャーレに蓋した時に、自分の左手が目に入ったのだった。
 左手、その手の甲。手袋越しだったが、はっきりと――渦が見えた。
 ブラックライトに照らされた左手の甲に、蛍光の薄い緑色のような色で、ぐるぐるぐると円が描かれていたのだった――その時、引っかかっていたことに納得がいった!
 白衣を翻し、丸椅子を蹴倒してしまったのをお構いなしに、実験室を出、研究室の机に戻る。流石の音に、院生が顔を上げて怪訝な顔をしたがそんなの知らない。カバンの中身をひっつかもうとして大腸菌に汚染された手袋なのに気付き、外そうとまくり上げる。慌てて、指が滑って、上手く抜けないのがもどかしい。引っ張って、べろりとめくれるように外れた左手を突っ込んで手紙と、ペンを握りしめて再び実験室へ。短時間過ぎてひっくり返った椅子のキャスターはまだカラカラ言っていた。が、そんなの気にせずチャンバーに手を突っ込み、手紙を広げる!
「やっぱりそうか」
 自宅のリビングで広げた時、まっさらだった便箋は。
 ブラックライトの紫以下の波長の光をさんさんと浴びて、その罫線に沿うように――文字を浮かび上がらせていた。
 丸っこい、小さな字。間違いない、カナの字だ。
 カナが、このペン――ブラックライトを当てると光るペンで、この手紙を書いたんだ。
 これも、小学生の頃に流行っていた秘匿アイテムシリーズの一つ。ブラックライトペン。その名の通り、ブラックライトをあてないと白紙のまま。インクは透明で何が書いてあるか分からない。しかし、付属のブラックライトを当てるとまぁ不思議。文字が浮かび上がるではありませんか! という代物。カナは、この普通では見えないペンで、秘密の手紙を書いたのだった。彼女はうちの実験室でブラックライトを使っているのを知っていた。だからこそできたことなのだろう。それにしても、気が付かなかったらどうするつもりだったのだろうか。
 ゾクリと戦慄めいたものを背中に感じながら、気が付いて良かったと胸をなでおろす。だって、これがカナからの三下り半。最後通牒なのだから。
 ブラックライトで読めるペン。昨日急いで買いに走ってまで、隠したかったその内容とは、一体。
 生唾を飲み込んで、ゆっくりと文章に視線を這わせる。
『ミキちゃんへ。
 突然のお手紙、ビックリしたかな。しないよね。だって、私がこういうことするの、ミキちゃん知ってるもん。
 そうです。このお手紙は、ミキちゃんから卒業するための、お手紙です。だから、最後に色々と言おうと思って書いています。どうか、拙い文章だけど最後までちゃんと読んでね。

 昨日、ミキちゃんに偶然道で出くわした時は、本当にびっくりしたんだよ。折角、見えなくするペンで書いたのに、すぐにバレちゃってたら、意味ないもん。少なくとも、私がいる前でこれを読まれたら、私はお嫁に行けなくなっちゃう。だから、付属のブラックライトは回収したし、私は、お先に出発することにしたんだよ。
 これを読んでるってことは、今大学だよね。朝ごはん、ちゃんと食べてくれた、かな。洗い物は、帰ってきてからでいいよ。食器、水に浸けておけばいいから。ミキちゃんは朝の忙しい時間にわざわざやりそうだから、念のため。
 
 昨日の夜は、ごめんね。
 ミキちゃんに、大事なこと黙ってて、突然言って、ビックリさせちゃって。説明無いまま出てきちゃって。本当に、ごめん。お風呂からあがってミキちゃんの寝息きいた時、正直ほっとしたんだ。ミキちゃんを説得できる自信なかったから。
 私、どうしてもミキちゃんに甘えたくなっちゃうからさ。
 でも、それじゃダメなんだと思う。私にとっても、ミキちゃんにとっても。だから、私、変わろうと思って。ミキちゃんのために、変わろうと思って、それで、結婚、決めたんだよ。
 ミキちゃんは、いつまでも私が縛ってちゃいけないんだ、って思ったから。
 
 ……あのね、ミキちゃんは覚えてないかもしれないけど。
 あの時、ミキちゃんがリコーダー忘れたって言って借りに来た、あの時。
 あのリコーダー、実はミキちゃんのだったの。
 私が、ミキちゃんのリコーダー、借りてたんだ。ごめんね。
 黙ってて、ごめんね。
 ずっと言えなかったんだけど、これで、おしまいだから。

 ……言い残したことは、多分もうないかな。
 これで、おしまいにするね。
 言葉足らずな点も沢山あるかもしれないけど、ミキちゃんなら分かってくれるって信じてる。
 だって、そうやって私達、ずっと一緒にいたんだから。
 ね。
 ミキちゃん。元気で、ずっと元気でいてね。笑っていてね』
 奏多より、と手紙は締めくくられていた。
 しばらく、上から下まで文章を舐めるように、何度も何度も繰り返し読んだ。頭は真っ白で、ただ文字を追うだけ。カチャカチャという周囲の実験器具の操作音と、ブラックライトが点灯するジィイという唸り以外の音が聞こえなかった。多分、呼吸が止まっていた。
 チャイムが鳴る。
 講義の開始か終わりか、どちらかを知らせる鐘が鳴ったところで、ビクリと反応し、ようやく我に返った。
 そして、とりあえず、倒れた椅子を立て直して、乱暴に座る。チャンバー台に肘をついて手紙をもう一度読み直し、溜息一つ。これで、お終いだ。そうだ。手紙にも合った通り、これで、カナと、ミキはお終いなんだ。そう思うと力が抜けて、背中が丸くなる。胸は締め付けられるように痛んで、しかし異常なまでに高鳴っていて、辛かった。
 気を取り直さなくっちゃ、いけない。これで、お終いなのだから。
 自分を鼓舞して手紙をたたむ。そして、封筒にしまった。
 しかし、それでお終いにすることは出来なかった。
 封筒の、糊付けするところ。開封口になっている所に、慌てていたせいか開けた時には気付かなかった文字が、浮かび上がっていた。
『追伸:寝てるのに、腕、くすぐったかったでしょ。ごめんね。
    今まで、一緒にいてくれて、ありがとう。ミキちゃんの幸せを、カナはずっと祈ってるよ』
――腕?
 視線を落とす。手紙を掴んだ手から伸びる、白衣に包まれた両腕。左は時計をはめ、右はそう言えば手袋をはめたままだ。
 腕に、カナは何かしたのか?
 今朝の状況を思い出す。今朝は、カナの夢を見て、起きて、世界が横向きで、それで――
 ハッとして、左腕をまくる。白衣のごわついた生地のせいで肘が曲げられなくなる。が、そんなの気にならなかった。
 案の定――だった。
 夢の中でくすぐったかった腕。
 起きたら剥き出しになっていた左腕。
 紫の光に照らされたそこには、はっきりとカナの字が浮かび上がっていた。
 耳の中で、カナの声が、再生する。

――ずっと一緒に生きたかったよ
――ミキちゃんが、生まれた時から好きでした

 その時初めて――僕は、カナを想って男泣きに泣いた。
 ブラックライトの光が、じりじりと皮膚を蝕む。
 当たりすぎると、本当に遺伝子が変異してしまうかもしれない。しかし、体は、ただ震えるだけだった。
 僕ら双子の、幹太と奏多の関係は、変異したまま――戻らない。
 恥も外聞もなく、身を引き裂かれる思いで溢れる涙を、僕は止めようとはしなかった。
 他の研究員や院生が、遠巻きに、心配そうに視線をくれていた。だが、誰も、何もきかなかった。
 ただ、乾いた排気音のする中、チャンバー内のブラックライトが、左腕をずっと照らし続けていた。
16/04/02 02:32更新 / 源 仙

■作者メッセージ
ミナモト は 時間という概念 を 忘れた! ▽
ということで三題噺でした。長かった。久しぶりに小説書いたら途中で自分でもよく分からないまま書き進める羽目になりました。怖い怖い。あーコメディ会話が恋しい。
さて、作者の意図がどれだけ伝わったかは微妙ですが、手紙発見のくだりはもう少し何とかなった気がしなくもないような。ブラックライトがあるのが大学というのが完全にネックでした。くそー。
結果、合計時間約5時間43分で、約15700文字です。お題提供者の方々、読了者の皆様、ありがとうございました。

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