読切小説
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カインの薔薇
 エントランスから一歩踏み出そうとした瞬間、希衣子は足を下ろす場所を見失った。咄嗟にその一歩を大きくして、足下に落ちていた物を避ける。落ち着いてから振り向いて、下を見ると、汚れた青い薔薇が、一輪落ちていた。希衣子は微かに目を見開いたが、直ぐに思い当たった。
 ――あの男が捨てたのだ。地面に落ちたそれを、執拗に踏みつける、磨きあげられた革靴。無惨に破れ、汚れるそれを見下ろす、歪んだ笑みの浮かんだ美しい顔。そこまでが頭を過り、希衣子は己の腕を、暖めようとするかのように擦った。服の下では鳥肌が立っている。
 マンションの出入り口に捨てられた一輪の薔薇は、あるいはあの男以外にも踏まれたのかもしれない。あの男がわざわざここに捨てたのも、それを望んでいたからだ。しかし、あの男が本当に青い薔薇を踏んでほしかったのは、希衣子だろう。希衣子にはそれが分かっていたが、彼女は踏みつけることなく、ただ虚ろな目で、無惨な青薔薇を見つめるだけだった。
 やがて希衣子は踵を返し、歩き出した。外出するのは億劫で仕方なかったが、どうしようもなかった。
「有岡希衣子さんですね」
 数歩歩いたところで、希衣子は呼び止められた。前から二人、スーツ姿の男達が歩み寄ってくる。振り向けば、スーツ姿の男がもう一人、それと女が一人、希衣子に近づいてきていた。
 希衣子は全てを悟り、俯いて次の言葉を待った。
「警察です」
 男の一人が言った。希衣子は一切抵抗することなく、彼らに従った。
 むしろ安堵するかのように、吐息を一つ、溢して。


「それ、どうしたの」
 希衣子は、リビングのテーブルに置かれたそれを見て、思わず訊ねた。部屋着に着替えてリビングに戻ってきた志野は、「ああ」と思い出したように言った。
「貰ったんだよ」
 誰に、とは志野は言わなかった。だから希衣子は訊かなかった。「そう」と短く答えて、その青薔薇の花束を見た。
「綺麗な青だろ? 着色してあるんだ」
 青い色素を持つ薔薇も近年作られたが、この薔薇ほど、海のように、サファイアのようには青くない。染色された青薔薇だからこその鮮やかさなのだと、志野は語ってみせる。
「まあ、俺は嫌いだけどね」
 志野は機嫌が良さそうに、笑ってそう言った。希衣子は何も言わず、俯いた。志野にはそういうところがあった。嫌いなものほど集めたがる。そして、壊してしまうのだ。
「お前、これ、いる?」
 志野が訊いた。希衣子は黙って首を横に振った。それで、志野の青薔薇への興味は失せたらしい。彼は表情を消して、タバコを咥えた。希衣子はそれを見て、少し顔を歪めた。
 体に悪いから煙草なんて止めろと、希衣子はかつて志野に言った。志野は、嗤って答えた。
「だから吸ってるんだろ?」
 毒の味がする、と志野は愉しそうに言った。だから希衣子は、それ以来止めていない。
「希衣子」
 志野の呼び掛けで、希衣子は現実に引き戻された。ぼんやりと志野を見ると、彼は紙片を希衣子に手渡してきた。
「明日はここ」
 志野はそれだけ告げてから、煙草の火を灰皿で揉み消した。そして立ち上がり、自分の部屋に帰っていった。
 希衣子は手の内の紙片を虚ろな目で見て、書かれた場所を覚えようとしたが、上手くいかなかった。しばらく食べることも眠ることも碌に出来ていない所為だったが、希衣子にはそれさえも分からなかった。
 ようやっと覚えてから、紙片を灰皿に捨て、希衣子は立ち上がった。そして自分の部屋に入り、そのまま、朝まで出てくることはなかった。
 次の日、希衣子がリビングに出た時には、青薔薇の花束も、灰皿の中身も、志野の姿も無くなっていた。希衣子はそれに何を思うこともなく、ただ淡々と出掛ける支度をし、部屋を出た。
 それから、マンションの出口で一輪の青薔薇を見つけた後で、警察に連れていかれたのだ。


 有岡希衣子からの情報で、間もなく志野尚も連行された。意外にも彼は逃亡する素振りすら見せず、大人しく手錠を掛けられた。
 取調室に入っても、彼は飄々としていた。むしろ、嬉しそうにも見えた。その美しい顔を少年のように紅潮させて、刑事の言葉を待っている。取り調べをしている刑事は、怒りを通り越して、呆気にとられてしまった。
「ねえ、刑事さん。ちなみに、俺が何人殺したか知ってる?」
 志野が訊いた。刑事は、四人だろう、と答えた。志野は笑った。
「実は、もう三人いるんだ」
 そして彼は、余罪について事細かに述べた。相手の名前、年齢、性別、住所、殺害した場所、殺害方法、遺体を遺棄した場所、凶器の処分方法、死ぬ間際の被害者の様子まで、実に丁寧に話した。
 刑事はそれを聞きながら、志野尚とは、歪んだ自己顕示欲の持ち主ではないか、と推測した。殺人を、自分の功績だと思い込んでいる手合いではないかと踏んだのだ。
 そこで刑事は、何故それを話したのか、と訊いた。志野は嗤った。
「何故? 決まっているじゃないですか。あいつらが醜く死んだことを、知ってもらいたかったんですよ」
 志野は真っ直ぐに刑事を見た。志野の顔は、人とは思えぬほど美しく、その表情は、人のものとは思えぬほど昏かった。
「これは復讐なんですから」
 そして志野は、訊かれてもいない身の上話を語りだした。
 父親が節操の無い男だったこと。その愛人達――女もいれば男もいた――が、家に代わる代わる入り浸っていたこと。十歳の時、父の愛人に暴行を受けたこと。父はそれを止めなかったこと。それどころか、愛人たちの誘いを受けて、一緒になって志野を犯したこと。初めて暴行を受けた日に、有岡希衣子を「見かけた」こと。その後、希衣子が自分と腹違いの妹であると知ったこと。準備を整えてから希衣子を自分の計画に誘い込み、二人の父親をまず殺したこと。そして、その愛人たちを殺していったこと。
「後は、刑事さんが調べた通りですよ」
 志野はそこで、やっと口を噤んだ。その顔には、話している時と変わらず、笑みが浮かんでいる。
 刑事は半ば呆然として、彼の話を聞き終えた。志野の境遇は悲惨なものだった。彼に精神的な異常が見られるのも、無理はないのではないかとすら思った。刑事はしかし、その考えを振り払い、志野に訊ねた。
 何故その「復讐」に、有岡希衣子を巻き込んだのか、と。
 志野は首を傾げた。そうすると彼は、あまりに無防備で、純真な子供のように見えてしまう。
「何故? 決まりきったことじゃないですか。……刑事さん、奧さんはいる?」
 刑事は目を瞬いたが、素直にいる、と答えた。すると、志野は笑みに嘲りを含めた。
「それなら、刑事さん。隣の奥さんが浮気していたらどうです? 別に、軽蔑はしても憎みはしないでしょう? でも、もし自分の奥さんが浮気していたらどうです? 許せないでしょう? 憎くて憎くて仕方がないでしょう?」
 志野の声は段々と高くなっていく。それとは対照的に、瞳の光は暗く昏く、落ちていくばかりだった。
「そうですよね? 人は、愛していなければ、憎むことなんて、できないんですよ」
 志野の頬を、光るものが一筋、滑り落ちたかに見えた。しかし、それは刑事の錯覚だったのだろうか。次の瞬間には、その跡は消えていた。そして、志野の声音からも高揚が消える。
「俺にとって、希衣子はそういう存在だったんですよ」
 だからあの日、声を掛けて連れ出したのだ、と志野は小さく、低く、呟いた。
 その言葉の真意を、刑事は知る由もなかった。


 林檎の皮を剥こうと、希衣子は包丁の刃を、丸いままのそれに当てた。しかし、上手く刃を動かすことができずに、左手の親指を僅かに切ってしまった。血が滲み、痛みを感じても尚、希衣子は、自分に何が起こったか理解することができなかった。そのまま呆然と傷口を眺めて、キッチンに立ち尽くしていた。
「希衣子」
 志野が希衣子に声を掛けた。それに希衣子は振り向く。志野は呆れたように、しかし優しく笑って、希衣子から包丁と林檎を取り上げた。
「らしくないね。こんなこと、お前ならなんてことないだろう」
 志野は明るく言った。希衣子は俯いて、小さく謝った。志野は首を横に振って、優しく言った。
「別に、怒ってないよ。お前が心配だったんだ。お前は俺の、大事な妹だからね」
 希衣子が食欲も無くし、夜は悪夢に魘されて飛び起きていることを、志野はよく知っていた。志野はいつも心配して声を掛けてやるが、解放してやろうとしたことは、一度もなかった。
「ほら、痛いだろう。早く手当てしないと」
 志野は希衣子の左手をとって、その親指を哀しそうに見つめた。それを躊躇いなく口元に運ぶと、そっと親指を口に含み、傷口を舐めた。柔らかな舌の這う感触に、希衣子は目を閉じて、耐えた。志野は伏せていた目を開けて、希衣子の様子を窺った。彼は微かに笑い、そして――
 そして、希衣子の傷口に、歯を立てた。
 希衣子は顔を歪め、呻き声を上げた。
 志野はその様子を見て、笑った。希衣子の血で、赤く汚れた唇を歪めて、心底嬉しそうに、声を上げて、嗤った。


 志野との暮らしを思い出しながら、希衣子は取り調べに応じていた。
 志野は林檎が好きで、よく希衣子に剥かせた。しかし、希衣子がアップルパイを作ると、志野はそれを一瞥して、言った。
「俺、そういうの嫌いなんだよね。過熱して、加糖した林檎。近くにあるだけで吐き気がする。お前一人で食べて、さっさと処分してよ」
 言われた通り、一人で希衣子はそれを食べ尽した。昔、二人でアップルパイを食べに行ったことを、想いながら――
 思わず涙が零れそうになって、希衣子は驚いた。涙を流すなんて正常な反応が、今の自分にもできたことが意外だった。
 やがて、希衣子が関わった志野の殺人について訊き終えた刑事は、希衣子に訊ねた。
 何故、志野と共に暮らし、共に殺し、共に生きていたのか、と。
 今まで、どんな質問にも淡々と答えていた希衣子が、突然、その両の目から涙を溢れさせた。
「どうして、そんなことを訊くんですか。そんな、分かりきったことを……」
 その問いは、希衣子が自分にし続けていたものだった。
 何故、逃げ出さないのか。何故、自分の罪を償おうとしないのか。
 しかし、何度理性が自分を責めようと、希衣子は動けなかった。
「好きだったんです。どうしようもなく、わたしは、あの男が、好きだったんです――」
 悪魔のような男だった。希衣子を縛り、脅し、突き落とした。希衣子が傷つけば笑い、苦しめば機嫌が良くなった。
 それでも、逃げられなかった。希衣子はあの日、志野に声を掛けられた日に、もう、囚われてしまっていたのだ。
「志野にはわたししかいないと、思い上がっていたのかもしれません。でも、もう分かりません。そうだとも言い切れません。ただ、どうしようもなかったんです。もう、自分でも、わたしの心をどうすることも、できなかったんです――」
 希衣子は知っていた。
 志野は、希衣子を憎んでいた。志野は、己を愛する全てのものを憎んでいた。だから、希衣子を憎んでいた。
 志野は、あの美しい、神に愛されたように美しい自分の顔を、憎んでいた。自分に降りかかった災難は、全て顔の所為だと思っていた。だから、よく似た顔の希衣子を憎んでいた。同じ顔をしながら、自分よりずっと、幸せに育った女を――
 それでも、希衣子は、好きだった。
 希衣子は泣き崩れ、声を上げて、尚も泣き続けた。
 志野は青い薔薇を踏み躙り、希衣子は踏まなかった。
 そう、それだけ。たったそれだけの、違いだった。
17/09/19 20:40更新 / 梢明

■作者メッセージ
文フリお疲れ様でした。
青薔薇の花言葉は「神の祝福」です。

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