読切小説
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heavenly blue
 ふっと、目が覚めた。ぼんやりと、眼前の畳の目を見つめる。部屋は薄暗く、涼しい風が吹き込んできている。そっと身を起こして、剥き出しの腕を擦った。
「風邪をひきますよ」
 はっと、顔を上げた。開け放した障子の向こう、縁側に、彼が腰掛けていた。こちらを振り向いて、微かに笑う。わたしは咄嗟に俯いた。手櫛で長い黒髪を整える。熱を持った顔に、右手で触れる。鏡が手元にないのが恨めしい。
「寒くありませんか」
 彼はもう、わたしを見ていなかった。どんよりとした雲が覆う、重たい灰色の空を見上げていた。
 わたしは、彼の背中を見て答えた。
「……ええ。大丈夫」
「そんな恰好で寝ていると、風邪をひきます。しっかり布団で眠った方がいいですよ」
「……風邪なんて、大したことじゃないわ」
「いけませんよ。体は大事にしてください」
 わたしは答えずに、わたしにだけ聞こえる声で笑った。彼の声には、棘が一つもない。思わず微笑んでしまうほどに、優しい声だった。
「……もうすぐですね」
「何のこと?」
 彼の言葉に、わたしは訊いた。
 彼は答えなかった。わたしはしばらく待ったが、耐えられなくなって、もう一度訊いた。
「桐生さん」
「……花が、咲きますよ」
 彼は小さく答えた。わたしは目を瞬かせる。
 遠くで雷が鳴っている。間も無く雨が降るだろう。風が吹き付けて、軒先に吊るした風鈴を鳴らした。
 わたしは目を伏せた。黒髪が頬に触れる。そっと首筋に手をやって、撫でつける。しばらくそうしていたが、やっと、わたしは顔を上げた。
「桐生さん」
 はっと目を見開く。風鈴が鳴る。もう、そこには誰もいなかった。
 わたしは俯いた。
 吹き付けていた風が、不意にぴたりと止んだ。
 ぽつり、ぽつりと雨が垂れてきた。すぐにそれは勢いを増し、屋根に跳ねる雫が大きな音を立てた。雨音が家を覆って、世界が遠くなる。
 わたしは俯いたまま、左手で右腕をきつく握りしめた。唇を噛み締めて、目も閉じて、堪えた。
 夕立の中、わたしは一人、取り残されたのだ。


 蝉が鳴いている。白く強い光が、窓の向こうに落ちているのが分かる。そのせいか、部屋の中はどこか薄暗かった。
「甥が、送ってくれたんです」
 千詠子さんが、段ボールを指差して、笑って言った。目じりに皺ができて、優しそうな顔になる。少し困ったようで、それ以上に嬉しそうだった。
「こんなにたくさん、二人の家に送ってきて、恥ずかしいです」
 千詠子さんが言うので、わたしは笑って首を横に振った。
「たくさんある方が、喜ぶと思ってくれたのでしょう。わたし、トマトは好きよ。毎食にあっても、飽きたりしないわ」
 段ボールには、トマトが溢れるほど入っていた。千詠子さんはそれをもう一度見て、苦笑した。
「それでも、食べきれませんよ。皆さんにお配りしましょう」
「そうね」
 わたしは頷いた。せっかくいただいたのに、腐らせるようなことはしたくない。
 私は指を折って数える。
「職場の人と、近所の人と――五人かしら」
「そうでございますね。近所の方には、わたくしが配りにいきます」
「……ああ、そうだわ。叔母さまの所にも持っていくわ。研究室に出入りしている方にも食べてもらえるもの」
 わたしが思いついて声を上げると、千詠子さんも頷いてくれた。
「それはようございます。どういたしましょう。わたくしが行きましょうか」
 わたしは首を横に振った。
「いえ、ちょうどご挨拶にも行きたいところだったから、わたしが行くわ。すぐに持っていきたいから、詰めてくれる?」
 千詠子さんは、目を瞬かせてから苦笑した。
「かしこまりました、お嬢様」


 真昼の太陽が、容赦なく光を振りまいている。蝉の声と熱気に包まれながら、白いワンピースの裾を翻して、わたしは歩いた。汗が首筋を伝う。長い髪が張り付いて気持ち悪い。
 右手に提げた、トマトの入った袋が重くて、わたしは白い日傘を握る左手と、持ち物を交換した。
 遠くに逃げ水が見える。陽射しを照り返すアスファルトの坂道の上で、わたしは立ち止まった。じっとしていても、暑さは何も変わらない。
 風は吹かず、誰かが通りかかることもなく、ただ蝉の鳴き声だけが、辺りに響いている。
 わたしはまた歩き出した。


 目の前のドアをノックする。ややあって、「どうぞ」と返ってきた。わたしは、日傘をドア横の傘立てにさして、そっとドアを押し開けた。途端に、涼しい空気が部屋から流れてくる。
「こんにちは」
 そう声をかけると、部屋にいた数人の男性たちが振り返った。外は猛暑だというのに、ネクタイをしっかりと締めている。彼らは「それでは、これで失礼します」と言って、こちらに歩いてきた。わたしがドアの前から退くと、こちらに会釈して部屋を出て行った。わたしも小さく会釈し返して、ドアが閉まるまでそちらをじっと見つめた。
「梓月」
 呼ばれて、わたしは振り返る。窓際にいた叔母が、わたしを見て笑っていた。
「急にどうしたの? 電話を貰って、驚いちゃった。あなた、今から来るなんて言うんですもの」
「叔母さま」
 わたしは、叔母の下まで歩み寄った。手に提げていた袋を少し開いて、叔母に見せる。
「これ、届けに来たの。千詠子さんの実家から、たくさん送られてきたから」
 叔母はトマトの詰まった袋を覗き込んで、微笑った。
「……ずいぶんあるのね。いいわ。ジャムにでもするから」
 わたしは目を見開いて、叔母を見た。
「トマトもジャムにできるの?」
「ええ、電子レンジでね。簡単よ。後で教えてあげるわ」
 わたしは笑って頷いた。
 叔母は「これ、ありがとう」と言って、トマトの袋をさらうと、隣の部屋に行ってしまった。わたしは、部屋の真ん中にあったソファに座った。叔母より先に、若い研究者の男性が来て、冷たい麦茶を二つ、ソファの前のテーブルに置いてくれた。
「ありがとうございます」
 わたしが言うと、彼は小さく頭を下げて、隣の部屋に帰っていった。わたしは早速、冷たい麦茶を、グラスの半分ほど飲んだ。
 男性と入れ替わるように叔母がやってきて、わたしの目の前に座った。
「外、暑かったでしょう。もう少し涼しくなってから来たらいいじゃない」
「……最近、物騒だから」
 わたしが小さく言うと、叔母は笑みを消して頷いた。
「そうね。今も、警察の方がいらしてたわ」
 わたしは、先ほどの男性たちを思い出した。
「あの人たち、警察だったのね」
「ええ。私の研究のことがあるから、協力してほしいって言われて」
 叔母はそこで言葉を切り、麦茶を飲んだ。わたしはテーブルの上の新聞に目をやった。「吸血鬼による殺人 未だ止まらず」。見出しと共に、新たな犠牲者となった、若い女性の写真が載っている。わたしは顔を歪めて、目を逸らした。
「叔母さま」
「何?」
 わたしの声は、低く小さかった。叔母の声も、先ほどより落ち着いている。
「吸血鬼にも、法は適用されるのね」
 叔母は頷いた。
「当然よ。吸血鬼には、人間と同じように人権が認められている。福祉も受けられるし、選挙権だってある。だから、同じように法の裁きを受けるのよ」
「そう。吸血鬼は、人間と同じなのね」
 わたしは俯いて言う。叔母は、毅然とした声で言う。
「そうよ。吸血鬼を殺すのも、人を殺すのも同じ罪だわ。それに、吸血鬼はね、一度に人一人分の血なんて、飲まなくても生きていけるのよ」
 わたしはもう一度、新聞に目をやる。四人目の犠牲者――同じ街で――いずれも体内から血液の大半が失われており――警察は同一犯の犯行とみて――。
「吸血鬼は、人と同じなのね」
 わたしはもう一度言った。叔母は訝しむように、わたしを呼んだ。
「梓月?」
「それなら、どうして――」
 それ以上は、言えなかった。わたしは口を閉ざして、俯いた。エアコンの風が冷たい。
 窓の向こうから、微かに蝉の声が聞こえる。



 
 菊の花が、店頭に並んでいた。お彼岸用の仏花だった。太陽は沈み、もう辺りは暗くなり始めていた。この時間だと、もう肌寒くて、わたしはカーディガンを着ていた。
 わたしは花屋の店先に並んでいた鉢植えを、店の中に仕舞っていた。
「すみません」
 しゃがみこんでいたわたしは、その声の主を、首をひねって見上げた。眼鏡をかけた、真面目そうな、穏やかな男の人が立っていた。
「もう、閉めるところですか」
 彼が半ば諦めたように言うので、わたしはすぐに立ち上がった。
「いえ、大丈夫です。何かお探しですか」
 彼は、ほっとしたように微笑った。
「赤い、花が欲しいんです」
「赤、ですか」
 わたしは辺りを見回した。赤い花はいくらでもあった。
「切り花ですか、鉢植えですか」
 わたしは彼に訊ねたが、彼は私を見ていなかった。足元の鉢植えを見て、呟いた。
「これ、綺麗ですね」
 わたしも彼の視線を辿って、それを見た。赤いペンタスの鉢植えだった。
「ええ、そうですね。こちらになさいますか」
 彼はやっと、わたしを見た。そして、微笑んだ。
「はい。ありがとうございます」
 その秋の日が、桐生さんと初めて会った時だった。




 朱色の空が広がっている。蜩の物悲しい声が聞こえる。少しばかり涼しくなった風が、髪を揺らしていく。白い日傘の下から、わたしは夕焼けを見上げた。
 昼間来た時も通った、坂道の前で立ち止まる。ここを下って、数時間前のわたしは、叔母の下に向かった。
 わたしは唇を引き結んで、道を右に曲がった。


 しばらく歩いているうちに、日はどんどん落ちて、辺りに夜の気配が漂い始める。わたしは歩くことを止めず、閉じた日傘を片手に、ただ前だけを見続けていた。やがて、両側にあったコンクリートの塀が途切れ、開けた道に出た。道の向こう側には、学校が見える。わたしは立ち止まり、微かに上がった息を整える。
 車の音は聞こえず、すぐ傍の家からも、物音がしなかった。
 しばらく立ち尽くしていると、背後で足音がした。わたしははっとして、右手で首筋を撫ぜた。
 わたしに気が付いたのか、足音が止まった。自分の息の音が聞こえるほどの静けさだった。微かに震える手を、胸の前で握り合わせる。そのまま待っていたが、動く気配はない。
 わたしは、そっと振り返った。
「桐生さん……」
 わたしが呼びかけると、彼は顔を歪めた。悲しそうな、顔だった。
「どうしたのですか」
 硬い声音で、彼は訊いた。わたしは口を開いたが、何も言えず、目を伏せた。彼がゆっくりと、こちらに近づいてくる。
「……桐生さん」
 わたしがやっと顔を上げると、彼は目の前にいた。何の表情も浮かべず、わたしをじっと見下ろしている。
「あの……。……そう。そうよ、トマト――トマトが届いたの」
 わたしは言った。彼は、微かに眉を寄せた。
「トマト?」
「そう、それも、たくさん。段ボール一箱分よ。だから、とても、食べきれなくて、だから――」
 わたしは、視線を泳がせながら言った。それでも一度だけ、取り繕ったように、笑って彼を見た。
「だから、今度、食べに来て」
 彼は、微笑った。
「はい。そのうちに、お伺いしましょう」
「トマトなの。もう、赤くなっていたわ。だから、なるべく早くね」
「はい」
 わたしが言うと、彼は笑って頷いた。わたしも笑って彼を見つめた。
 蜩の声が、かすかに聞こえる。
 わたしはそっと、目を伏せた。


 門の前で、千詠子さんが忙しくなく辺りを見回している。近くの街燈が、彼女の歩みに合わせて動く影を生み出している。わたしが近づいていくと、彼女はわたしに気が付いて、悲鳴のような声を上げた。
「お嬢様」
 千詠子さんが駆け寄ってきた。わたしは苦笑する。
「ただいま」
「こんなに暗くなるまで、いったいどちらにいらしたのですか。由芙子様の研究室にお電話いたしましたら、日が暮れる前にはお戻りになったと……」
 千詠子さんは、強い口調で言う。わたしは眉尻を下げた。
「ごめんなさい。少し、遠回りをしていたの」
「……ともかく、無事で何よりでございます。さあ、早くお入りください。夕飯はできております」
 千詠子さんが、わたしの背中をそっと押した。わたしは頷いて、門をくぐった。
 もうすっかり暗くなり、空には星が瞬いていた。


 夕飯は、パプリカの肉詰めのトマトソース煮込みと、トマトの入ったサラダと、冷製スープだった。食堂の明るい電球の下、わたしと千詠子さんはそれを食べた。
「由芙子様はお元気でしたか」
「ええ」
 千詠子さんが訊いてきたので、わたしは頷いた。千詠子さんは、「それはよろしゅうございました」と微笑んだ。
「ねえ、千詠子さん」
 パプリカをナイフで切りながら、わたしは呼びかけた。彼女は「はい、何でございましょう」と、答えた。
「吸血鬼の研究って、いいことなのかしら」
「……どういう意味でございましょう?」
 千詠子さんは首を傾げた。わたしは、フォークでパプリカを突き刺す。
「だって、吸血鬼って、人間と同じ扱いなのでしょう。研究に使われるなんて、いいことなのかしら」
 千詠子さんは、目を瞬かせた。スープに目を落とし、彼女はそれをスプーンでかき混ぜた。
「そうですね。人間も、今だって研究対象になっておりますでしょう? 人間の身体と心の為には、必要な事でございますから」
「それなら、吸血鬼の研究をすることは、吸血鬼にとっていいことなのね」
「はい。わたくしはそう思います」
 千詠子さんが頷く。わたしはパプリカを口に運んだ。
「由芙子様の研究室にも、夜は吸血鬼の方が、ご自分で研究をする為に、出入りなさっているようですし」
「そうね。叔母さま、確かにそうおっしゃっていたわ」
 千詠子さんが続けて言った言葉に、わたしは頷いた。それから、グラスの中の水を飲んで、そっと千詠子さんの顔を見た。千詠子さんは、ただ優しく微笑って、わたしを見つめている。
 からり、とグラスの中で、氷が音を立てた。




 雪が降っていた。街燈の明かりが柔らかく広がる。手袋をしていても、寒さが染みて指が悴むような、そんな日だった。
 傘が重くなってきて、真っ赤なそれを傾けて、積もった雪を地面に落とした。
「ひどい雪ですね」
 隣で、桐生さんが言った。その声は小さかった。雪が世界の音を吸い取っている。足音も息遣いも遠ざかり、自分の鼓動の音が聞こえるようだった。
「ええ。電車もバスも止まっているわ。雪国の人からは、きっと笑われてしまうのでしょうけど」
「この辺りは山がありませんから、吹雪きますよ。電車やバスに悪いのは、そちらの方でしょう」
「そうなのね」
 わたしは彼を見た。彼は少し俯いて、足元を見ていた。わたしも雪に埋もれる、ブーツを履いた自分の足に目線を落とした。
 しばらく歩いたところで、家の門が見えてきた。わたしは、「あそこです」と言った。彼はその下まで私の隣を歩いたが、そこで立ち止まった。
「それでは、僕はこれで」
 彼の顔が、街燈の明かりに照らされている。その向こうで、真っ黒な闇の中を、白い雪の花が散っていた。
「あの、桐生さん」
 わたしは呼びかけた。
「はい」
「電車も、バスも止まっているわ。これから歩くのだって、大変でしょう」
 桐生さんは表情を硬くした。わたしは、言った。
「良かったら、泊まっていって。部屋なら余っているの、気にしないで」
「しかし、急に……」
「いいの」
 わたしは首を横に振った。
「気にしないで」
 彼はしばらく黙ったままでいた。わたしは彼から目を逸らさずにいた。彼は、わたしと目を合わせると、微かに笑った。
「それでは、お願いします」


 千詠子さんが、彼の前にシチューを置いた。電球の明かりの下、白いシチューからは湯気が立ち上っている。彼は頭を下げて、千詠子さんにお礼を言った。千詠子さんは、彼に笑いかけた。
「桐生さんは、お嬢様のお花屋さんの常連さんなのですか」
「ええ。今日も寄ってくださって、雪が降っているからと送ってくれたの」
 わたしが答えると、千詠子さんは「それはよろしゅうございました」と、笑う。
「桐生さんは、お仕事は何をされていらっしゃるのでしょう」
「教師をしております」
 千詠子さんが訊くと、彼は答えた。千詠子さんは目を丸くして、頷く。
「先生ですか。それで、今日もお仕事を?」
「いいえ。今日はこの雪で休校になりました。ですが――」
 彼は言いかけて、わたしをちらりと見た。わたしは黙って彼を見つめ返したが、彼は何も言わず、目を逸らした。千詠子さんは首を傾げたが、すぐに彼に微笑みかけた。
「お話ばかりして、申し訳ありません。せっかくですから、冷めないうちにお召し上がりください」
「ええ、いただきます」
 彼はスプーンを手に取った。一口シチューを飲むと、笑みを浮かべた。電球の橙色の光が、柔らかく彼を照らす。
「美味しいですね」


 不意に目が覚めた。まだ部屋は真っ暗だった。
 手を伸ばして、枕元の電気スタンドを点けた。目覚まし時計は、午前四時過ぎを指している。
 わたしは体を起こし、布団の上でしばらく座り込んでいた。夜明け前は、寒さが特に身に染みて、頬や鼻先が冷たくなっていく。
 やがて、わたしは立ちがった。


 身支度を整えた私は、暗い廊下を歩いた。締め切った雨戸の僅かな隙間から、少しだけ光が差し込んでいる。それだけが、頼りだった。
 廊下の先に、明かりが灯っている場所があった。わたしはそちらに向かい、歩みを少し速めた。
「桐生さん」
 辿り着いた玄関で、彼は靴を履いているところだった。彼は振り返り、ばつの悪そうな顔をした。コートをしっかりと着込み、荷物を抱えた彼は立ち上がって、わたしに向き直った。
「すみません。無礼は承知ですが、どうしても行かなくてはならないのです」
「……そう」
 わたしは俯いた。思っていたより、ずっとか細い声が出た。彼は微かにたじろいた。
「桐生さん、そうなのね」
 わたしが言うと、彼は息を呑んだ。わたしは続ける。
「あなた、やっぱり――」
「それでは、失礼します」
 彼は深く一礼して、身を翻した。わたしは彼が出て行くのを、ただ見ていた。
 外はもう、雪は降っていなかった。ただ、凍えそうに寒い風が、彼が扉を開けた時に流れ込んできて、わたしは身震いした。
 扉が閉まると、わたしはその場に座り込んだ。スカートを、皺ができるほど握りしめる。手が微かに震えている。
 わたしはそうやって、冬の夜明け前、じっと堪えていたのだ。




 トマトのジャムを、ヨーグルトに入れて混ぜる。器の中が、ピンク色に染まっていく。食堂の電球は消され、午後の光が窓の向こうで踊っている。扇風機の風が、わたしの髪を揺らした。
「そういえば、最近おいでになりませんね」
 千詠子さんが言った。わたしは一瞬、スプーンを握る手を止めた。
「そうね。お忙しいのかしら」
「お店にはいらしていますか」
「先週は来なかったわ」
 わたしはヨーグルトを口に含んだ。千詠子さんは、眉を寄せて、不安げにしている。
「去年の冬にいらしてから、梅雨ごろまではよくいらしていましたね」
「そうね。学校は、秋に行事が多いですもの。その準備でもしていらっしゃるのではないかしら」
 わたしが言うと、千詠子さんは何も言わなくなった。彼女も、スプーンでヨーグルトをすくう。わたしは視線を、テーブルの上に置かれたままの新聞にやった。「連続殺人 新たな犠牲者」。わたしは眉を顰めて、ヨーグルトを飲み込んだ。
「千詠子さん、知っている? 吸血鬼って、自分のことを好きな人間の血が、一番おいしく感じるんですって」
 千詠子さんは、わたしの言葉に目を丸くした。
「そうなのですね。何故でございましょうか」
 わたしは手を止めて、彼女に答えた。
「その吸血鬼のことが好きな人間なら、簡単に血をくれるでしょう? 一番飲みやすい血が、一番おいしく感じるようにできているのよ」
「それはそれは。生物とは不思議とうまくできているのですね」
 千詠子さんは感心したように頷いた。わたしはそれきり黙って、赤いジャムに目をやった。
 蝉の声が、窓の外から聞こえる。
 わたしはスプーンを持っていない左手を、首筋にやった。撫でつけると、血の熱さが伝わってきた。両側に指を這わせても、そこには何の跡も、出来物もない。
 わたしはため息をついて、またヨーグルトをすくった。
 遠くから、風鈴の音が、聞こえた。




 桜が花びらを散らしている。部屋からの明かりと、月明かりで、薄紅色の花びらが暗闇の中でぼんやりと見える。わたしは縁側で、彼と並んで座っていた。
 彼が、掌より少し大きい袋を取り出して、わたしに差し出した。
「これを、差し上げます」
 わたしはそれを受け取り、中を見た。
「種?」
「ええ。ヘブンリー・ブルーの種です」
 わたしは一粒取り出して、背後の部屋からの明かりにかざして、眺めた。黒く小さく、雫型をしている。
「ヘブンリー・ブルー……。セイヨウアサガオね」
「ええ。名前の通り、美しい青色の花です」
 わたしは種を、袋に仕舞った。
「五月になったら、植えるわ」
「ええ、そうしてください。処理はしてありますから」
「ありがとう。きっと、いいカーテンになるわ」
 わたしは笑った。彼も青白い顔で微笑んで、わたしを見た。
「桐生さん」
「はい」
 わたしは呼びかけてから、口を閉ざした。目を逸らして、暗闇に浮かび上がる、自分の白い脚を見た。
 彼は、訊き返してこなかった。代わりに、彼は言った。
「大事に、育ててくださいね。綺麗な花が咲くように」
 わたしは頷いた。手の中で、種の入った袋がつぶれていく。皺が寄り、微かな音を立てる。
 わたしは何も言えなかった。彼も、何も言わなかった。
 春の夜は、そうして過ぎて行った。



 蝉の声が洪水のように響く。昼下がり、電気は必要なかった。わたしは畳の上で膝を抱えて、目の前のテレビをぼうっと見ていた。
 ニュースキャスターが、事務的な声音で、事件の進展を告げる。
 ――昨夜、吸血鬼による連続殺人事件の犯人を名乗る男が、自首しました。男は吸血鬼で、夜間学校において教師をしている――。
 ニュース画面が消え、黒くなった画面に、わたしの呆然とした表情が映る。リモコンを握りしめたまま、わたしは動けずにいた。
 蝉の声が聞こえる。それ以外の音は、何も聞こえてこなかった。


 ノックもせずにドアを押し開けて、部屋に飛び込む。叔母がこちらを見て、目を見開いた。
「梓月、どうしたの。急に――」
「叔母さま」
 わたしはよろめきながら、叔母に近づいた。叔母は慌てて駆け寄って、わたしの腕を取った。
「あの人が、捕まったって、嘘よね、あの人、何もしていないわ、わたし、知っているのよ、だって――」
「梓月、落ち着いて。……分かっているわ。調べればすぐに分かることなんだから。警察の人が来て、さっき私にも調べてほしいって」
「でも――でも、そうでも、そうじゃなくても、あの人は、もう――」
 糸が切れたように、膝を折った。叔母はわたしを支えた。わたしは、叔母に縋り付いた。
「嘘よね。嘘よね。どうして、ねえ、吸血鬼は、好いてくれる人の血が欲しいんでしょう、どうして、それなら、どうして。ねえ」
 叔母は落ち着いた低い声で、そっと、ゆっくりと言う。
「そうね、一番おいしいのは、自分を好いてくれる人の血ね。それに、血はそんなにたくさん呑まなくてもいいのよ。でもね、血を吸うことそのものが好きな吸血鬼だっているのよ。だから関係ない人を、たくさん襲うのよ」
「違う、違うわ。あの人は、違うわ」
 わたしは叫ぶように言った。叔母はわたしを抱きしめて、背中を擦った。
「知っているわ、梓月。あの人は――桐生さんは、犯人じゃないんでしょう」
「違う、そうじゃないの」
 わたしの目から、涙が溢れた。叔母は何も言わずに、次はわたしの頭を撫でた。
「違う、欲しいんでしょう。自分を好いてくれる人の血が。それなのに、どうして、どうしていなくなってしまうの、ねえ」
 わたしは声を上げて泣いた。
 叔母の肩の向こうに、窓を見た。夏の強い日差しが容赦なく降り注ぐ、白い世界があった。遠くのビルに、強い光が反射している。
 光も熱も、ガラスもコンクリートも、涙の中で歪んでいった。




 ふっと、目が覚めた。ぼんやりと、眼前の畳の目を見つめる。弱い雨音が微かに聞こえてくる。昼間なのに、薄暗い。
 傍らに気配を感じて、わたしは首をひねって上を見た。
 彼が、気まずそうに肩を強張らせたのが見えた。わたしははっきりと目を覚まして、体を起こした。
「桐生さん」
 わたしは呟いた。彼は眼鏡を指先で押し上げて、苦笑した。
「すみません。さすがに、失礼でしたね」
 わたしは俯いた。
「別に、いいわ」
 言いながら、手櫛で長い黒髪を整える。熱を持った顔に、確かめるように触れる。鏡が手元にないのが恨めしい。
「こんなところで眠っていると、風邪をひきますよ」
「大丈夫よ」
「いけませんよ、体は大事にしてください」
 彼の声音は、甘かった。わたしはそっと、彼に分からないように笑った。
 わたしは彼に訊いた。
「桐生さん」
「はい」
「雨は、お好き?」
 彼は頷いた。
「ええ。雨音が、好きです。聴いていると、落ち着きます」
「そうなの。だから、つい、眠ってしまうの」
 彼は、困ったように、呆れたように、微笑った。わたしは、その笑みをみとめて、笑った。
「わたし、きっと、あなた以上に、雨好きだわ」
「そうなのですか。そんなに、雨が好きですか」
 わたしは頷いた。彼の背後に、青色の美しい紫陽花が見える。雨を吸って、葉の緑はいっそう鮮やかに見える。
「明日も、雨だそうですよ」
「そう、嬉しいわ」
 わたしは彼に答えてから、そっと、首筋に右手をやった。彼はそれを見て、笑みを消した。わたしもそっと、表情を消した。
「……桐生さん。さっき、わたしの――」
「いいえ」
 彼はきっぱりと言った。わたしは、彼の青白い頬に、微かに震える手を這わせた。
「どうして、こんなに、青い顔をしているのに、どうして……」
「……僕は、勝手にあなたの身体に傷をつけたりしませんよ」
「いいわ。わたし、あなたなら、あなたになら、何をされたって――」
 彼は優しく、わたしの手を引き剥がした。彼の頬から離れた手は、行き場をなくして、膝の上にだらしなく落ちた。
「どうか、そんなことを言わないでください」
「だって、あなた、最近ちっとも呑んでいないでしょう。分かるわ。ずっと――」
 それ以上は、涙で詰まって、言えなかった。彼は、悲しそうな顔をしていた。悲痛なかおだった。わたしは、彼の胸にしがみ付いた。
「桐生さん――」
 わたしが呼ぶと、彼はそっと、わたしの背に腕を回した。わたしは彼に、必死で縋った。彼は何も言わず、そのままでいた。
 梅雨の雨音が、遠くなる。彼の鼓動が、確かに聞こえる。
 わたしの嗚咽に交じって、小さく、確かに彼の声音が紡いだ、わたしの名前を聞いた。




 蝉たちが声を張り上げている。わたしは帽子をかぶって、蝉の歌が響き渡る庭に、ジョウロを右手に立っていた。障子を明け放した部屋から、テレビの音が僅かに聞こえる。
 ――本日未明、吸血鬼による連続殺人の容疑者として――なお、先日自首してきた男と容疑者は面識がなく――警察は引き続き――。
 わたしは歩き出す。向かった先には、青い花のカーテンがあった。
 水を、朝顔たちの根元にかけてやる。日は中天高く上がっていたが、まだ青い花は咲んでいた。わたしはそれを見つめて、不意に水をやる手を止めた。
 首筋を、右手でなぞる。何の跡も、出来物もない。牙の跡など、あるはずがなかった。
 わたしは呆然と立ち尽くす。目の焦点を、うまく合わせることができない。
 花の種をくれた時の、彼を思い出す。袋を差し出した時の細い指先も、微笑みも、全部、覚えている。
 この花は――
 わたしはジョウロを地面に叩きつけた。重い音をたてて、緑色のジョウロは地に落ちた。残っていた水が毀れ、土の色を濃くしていく。
「嘘つき」
 わたしは叫んだ。涙が溢れて止まらない。わたしは照りつける日光の下、しゃがみこんだ。
 蝉の声に、わたしの咽び泣く声が混じる。
 その合間に、彼の声の幻を聴く。彼は柔らかな声で、わたしを呼ぶ。
 ――梓月さん
 と。
17/06/07 14:45更新 / 梢明

■作者メッセージ
 ヘブンリー・ブルー(セイヨウアサガオ)の花言葉には、「堅い約束」「結びつき」などがあります。また、青いアサガオには、「儚い恋」という花言葉もあります。
 セイヨウアサガオは、「アサガオ」とは言いますが、午後まで咲いているようです。花は八月後半から咲きだし、秋の花といえます。しかし、日本のアサガオと同じく、冬を越すことはありません。また、種もどうやらできにくいようですね。

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