読切小説
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見えないブラウスの内側には

 「男の人は嫌い」と、あなたは小さな子供のように言った。
 僕は苦笑いする。苦笑いして、「それでも、僕のことは好きなんでしょう」と言う。彼女は、ふわりと悪戯っぽく笑う。
 「もちろん、愛してるよ」
 
    ***

 うまれたとき、すべては「おんな」なのよ、と。
 彼女は詩を暗唱するように言った。僕は黙ってそれを聞いている。
「生まれたとき、全ては『女』なのよ。性は一つしかないの。男なんて、どこにもいなかったのよ。けれども、神様の気まぐれで、ある日突然そのうちの何人かが男になるの。だから、男は異端なの。欠落しているの。彼らは後付けの性だから、子供も産めない。ただ、快楽だけを知っている」
 ぷちん、ぷちん、と。
 彼女が手持無沙汰に裏庭に咲く白い小さな花を手折る。
 ぷちん、ぷちん、と。
 手折っては捨てて、手折っては捨てて。彼女の足元は、徐々に白く染まっていく。
「彼らは罪を犯したのよ。それは、例えるならば忘却に等しくある。彼らは忘れてしまったがゆえに、罪を背負う。異端の性を背負う。彼らはいつも、私たちよりも未熟で、それなのに、先を急ぐ。生を急ぐ。性を。全ては本能のままに。だから、私、彼らのことが嫌いなのよ。憐れに思うけれど、嫌いなのよ」
 にっこりと、綺麗に、美しく彼女は微笑む。僕は、「そうだね」と短い相槌を返す。
「……あなたは、処女神話を信仰するの?」
 唐突に質問を投げつけられる。さっきまでとの会話の内容とは、いくぶんかずれた問い。全然、予測できはしない。けれども、そんな理不尽な会話の展開に、僕はもう慣れていた。
「しないよ。馬鹿々々しい」
「そう、私も同じよ。馬鹿々々しいね、処女信仰なんて。未開封の少女も開封済みの少女も、少女であることに変わりはしないのに。それに、処女いかんに関わらず、女性はいつまでも少女でもあるし、女の子でもあるし、それでいて、女でもあるのに」
 彼女は休む間もなく、花を手折る。
 ぷちん、ぷちん。
 手折っては捨てて、手折っては捨てて。まるで抜け落ちた羽のように、花弁は舞って、地面を白く、白く染める。
「ねえ、処女を望むのは、醜い独占欲と支配欲の表れなの。彼らは、『自分だけ』のものがほしいの。それだけなのよ、きっと」
 ざわざわと、生ぬるい風が前髪を揺らす。ネクタイを揺らす。彼女のスカートが揺れて、ちらちらと白い太ももが見え隠れする。僕は、ごくりと唾を飲み込む。喉が、渇いている。
「君は、処女なの?」
 僕は馬鹿みたいな質問をする。「デリカシーがないの」って、ころころと彼女が笑う。僕の前では、彼女はよく笑う。ころころ、にっこり、ふわり、と。いろんな擬音が聞こえる笑顔を彼女は僕にだけ、こっそりと見せてくれる。
「あなたは、どう思うの。私は処女なの?」
 質問を、質問で返される。彼女はいつも、答えをくれない。けれども、それは意地悪ではなく、ただ単に彼女も答えを持ち合わせていないだけのようにも感じる。 
 それは、つまり、どういうことなのか。
 きっと、僕が一番知っている。

    ***

 触る。
 髪の毛。瞼。頬。唇。首すじ。鎖骨。乳房。腕。手のひら。指。肋骨。腹。へそ。腰。太もも。膝。足。踵。つまさき。
 さわって、さわって、さわって、さわって、さわって。
 僕は、あなたに触って。
 あなたは、僕に触って。
 融けていくんじゃないかなって、思う。錯覚する。
 それはきっと。
 あなたも同じなんだと思う。
 融けていくんじゃないかなって、思う。切望する。
 それはきっと。
 僕の独りよがりではない、はず。
 暗闇の中でも、あなたの体の輪郭がぼんやりと見える。あなたの肌の感触がひんやりと分かる。見えなくても、あなたはそこにいるのだと確信できる。そのことが僕には愛おしくって、幸福で、だから、あなたに触る。何度も、何度も。執拗に指を這わせる。お互いに。
 「ここは、おへそだね」って。暗闇の中で僕の指が言う。
 「ここは、かかとだね」って。静寂の中であなたの指が言う。
 当たり前に、それはへそで、あれは踵。それ以外の何物でもなく、ちゃんとあるべきところにある。けれども、僕は確かめるし、あなたも確かめる。そこに、意味はないのだと思う。けれども、確かめる。触る。確かめる。そんなことを繰り返し、繰り返し、繰り返す。そう、当たり前のことだけれど。
 そうして、最後には、あなたは決まって呟くように言う。
「男の人は嫌い」と。
 それが、僕とあなたの交わりだった。
 決して、誰にも知られてはいけない秘密。子供の遊びのように純粋無垢で、けれどもこれが何のためなのかは知っている。そうしてこれが何にもならないことを知っている。
 それでも、僕はあなたを求める。

    ***

 「ミセイネン」と彼女が言う。
 僕は、「え?」と聞き返す。彼女は優しく笑って、もう一度「ミセイネン」と呟いた。
「あなたは、ミセイネンなのよ。まだ、自分の性を決められない」
「どういうこと」
「あなたは、女の性しかもっていない。それなのに、男の性がちらちらと揺れているの。あなたの中には、それが入り込む場所はないというのに。それなのに、どこからか紛れ込んで、あなたの中に男の性を植え付けてしまった」
 ふわり、と。
 彼女が手を広げる。僕を包み込むように。まるで、母のような顔をして。慈しむように。愛でるように。やさしく笑って。
 僕は一歩も動けない。
「まるで、呪いのようね。身を焦がす毒のようね。あなたは、あなたに殺されるの。生は性に殺されるの。あなたは間違えられた後付けの性によって、生を見失う。本当は、女であるはずなのに、男の心が芽生えたせいで」
「それは、滑稽だね」
 僕は他人事のように吐き捨てる。ぽいって。言葉と一緒に、全部捨てられたらいいのにって、思いながら。
「ええ、そうね。『深い悲しみにはいつもいささかの滑稽さが含まれている』って、小説で読んだことがある。あなたも、そうね。混沌として、どろどろで、迷いと恥じらいと欲求不満と……恐れが、きらきらと硝子片のように光っているの。それは物語のような美しい深い悲しみに覆われているけれど、どこか現実的で生々しくて、それが不均衡だから滑稽に感じるの」
 ひんやりとした感触が僕の頬を包む。白い手が。彼女の白い手が僕の頬を包む。僕のほてった頬の熱が、ゆっくりと奪われていく。彼女の中に、移っていく。彼女の顔が近づいて、ふんわりと甘い香りが僕の鼻孔を撫でる。それは神経毒のように、僕の思考を切断していく。
「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」
 彼女が僕の右頬に顔を埋めて、囁くように呟いた。
「いやなんです
 あなたのいつてしまふのが――
 なぜさうたやすく
 さあ何といひませう――まあ言はば
 その身を売る気になれるんでせう
 あなたはその身を売るんです」
 僕は、この詩を知っている。だって、これは彼女が僕にくれた詩集の、冒頭に載っている詩だから。
「一人の世界から
 万人の世界へ
 そして男に負けて
 無意味に負けて
 ああ何といふ醜悪事でせう」
 がりっ、と。彼女が僕の耳を噛む。短く、けれども鋭く。鈍い痛みが尾を引いて、じんわりと熱を帯びる。僕は、ため息とともに、声を出す。何か、言わないと。言わないと、彼女にこのまま呑みこまれてしまうように思った。
「智恵子抄」
「そう、そうよ。覚えていたのね」
「忘れるはずないよ。君からもらった本だから」
 耳元で微かに空気が振動したように思った。もしかしたら、彼女は今笑っているのかもしれない。
「どうして、僕たちは女なのかな。不便で不平等で不道徳な女なんかに生まれてきてしまったのかな」
「それは、仕方がないよ。だって、みんな女から生まれてくるしかないのだから。それに、みんな始めは女だったのだから。でしょう?」
「うん、そうだね。そう。それが道理なのだから、確かに、仕方ないんだね」
「ええ、そうよ。仕方ないのよ」
 よしよしと、諭すように、あやすように、優しく背中を撫でられる。僕はなぜだか泣きたくなって、彼女の柔らかい髪に顔を埋める。
「それでも、女に生まれてきたからって、男に劣っているわけではないのよ。負けているわけではないのよ。大丈夫。あなたはあなたのままで生きていけるの。そうやって、偽って必死にならなくても。あなたのままでも生きていけるの。何も、怖いことなんてないのよ」
「……うん」
「歪まなくてもいいの。揺らがなくていいの。あなたは、あなたのままで」
 いい匂いがする。彼女の、髪の毛の匂い。いつも包まれていた匂い。柔い肌の感触とともに、ある匂い。僕はその匂いに溺れる。なりきれない性を抱えて。振り払えない性を抱えて。彼女に溺れる。
それが、どうしようもなく心地よかった。
 持っているはずなのに、受け入れきれない自分の性を、彼女は正しく持っているから。だから、さわって、さわって、確かめる。自分の持っているはずの性を。拒み続ける性を。さわって、さわって、確かめる。
「私は、あなたに恋をしているの。そう、あなたを愛している。とっても、とっても、愛しく思うの。それは、あなたがまだ『未性年』だからなのかもしれない。けれども、私はあなたを愛しているの」
 彼女の言葉が耳からゆっくりと入って、僕の脳を、心を、侵していく。言葉が。詩集に印刷されていた言葉が記憶の底でちらちらと揺れる。寒い冬の夜に降る、淡雪のように。瞬いては消えてゆく。
   
   浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
   はかない 淋しい 焼けつく様な
   ――それでも恋とはちがひます
   サンタマリア
   ちがひます ちがひます
   何がどうとはもとより知らねど
   いやなんです
   あなたのいつてしまふのが――
 
「いつか、君は誰かのお嫁に行くのかもしれない。僕じゃない、男の」
 ぽつりと呟くと、彼女が小さく首を振った。僕は、それに気づかないふりをして続ける。
「それを、僕は嬉しく思うよ」
 ふるふる、と。彼女は首を振り続ける。
「けれども、僕は君のことが好きだから。だから、きっと、悔しく思うし、絶望的な気持ちになるんじゃないかな」

   いやなんです
   あなたのいつてしまふのが――
   おまけにお嫁にゆくなんて
 
「僕にはあなたを幸せにできないって、わかっているけど。それでも、僕は君を貰っていく男が憎くて憎くて仕方ないんじゃないかな。きっと」

   いやなんです
   あなたのいつてしまふのが――
   おまけにお嫁にゆくなんて
   よその男のこころのままになるなんて

 「ねえ」と彼女が言う。小さな声で。けれども、その声は確かに僕の耳まで這って来る。
「私の処女はあなたのものよ。永遠に。いつか、私が誰かのお嫁さんになって、お母さんになって、お婆ちゃんになったとしても。私の処女はあなたのものよ。あなただけのものよ」
 僕は、小さく頷く。強がって、何でも無いって言ったって、「処女」は、どうしようもなく重みのあるものなのだ。捨てるものではなく、捧げるものなのだから。
 僕も、祈るように、誓うようにして、彼女の耳元で呟いた。

 「僕の処女も、永遠に、君だけのものだから」



                   *引用…「人に」高村光太郎著 智恵子抄収 
16/07/08 19:25更新 / 深森契

■作者メッセージ
高村光太郎の詩集は文庫でいくつか持っていますが、ハルキ文庫のが一番お手頃価格で表紙も美しく、さらに現代語訳もついているのでおすすめです。

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